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お盆がくると思い出すこと。

弁護士の安部です。

お盆の時期になると、数年前に他界した母方の祖父のことを思い出します。
大正10年生まれの祖父は、戦争経験者でした。
生前は、よく、第二次世界大戦中に、航空隊として徴兵されてジャワ島に行かされていた話を聞きました。
ジャワ島で祖父の所属していた部隊では、戦闘機に乗る時は、軍服の胸ポケットにお気に入りの香水の小瓶を入れておき、戦闘で亡くなってしまったら、胸ポケットの香水をかけてあげることになっていたそうです。
この話を聞くと、若者達が、日常的に常に「死」を意識していたことが分かります。

祖父の妻である祖母は、今月84歳になりますが、とても元気で、札幌で暮らしています。
昭和3年生まれの祖母もまた、戦争経験者で、当時は豊川にある海軍工廠(こうしょう)で働いていました。
海軍工廠とは、戦争に用いる機銃や弾丸、信管を製造する工場で、豊川海軍工廠は、東洋一の規模だったそうです。
今回このコラムを書くにあたり、ネットで豊川海軍工廠について調べたところ、工廠が壊滅した昭和20年8月7日の爆撃の際に、空襲警報や総員退避命令が出たかどうかが議論になっているとあったので、祖母に聞いてみたところ、「退避命令出たよ。まあ、おえらいさんがみんな逃げちゃった後だけどね。」とのこと。祖母の言うのが、上述の爆撃のときのことなのか、別の爆撃のときのことなのかは定かではありませんが。
また、祖母が言うには、豊川海軍工廠にあった防空壕には屋根がなく、単に地面を掘っただけなので、空襲で防空壕に避難している間は、空で戦闘機が撃ち合うのが見えたり、近くに爆弾が投下され、土砂などが頭の上に降ってきて、生きた心地がしなかったそうです。
空襲のさなかに工廠から帰るときなどは、いつ爆撃されるか分からない恐怖の中、空の様子を見ながら走ったことなど、今でもたまに話してくれます。
以前、祖母と一緒に豊川にある豊川稲荷に行ったとき、戦争の慰霊碑のところで、祖母は、そこに刻まれた名前のいくつかを指さし、「この子は友達だった。」、「この子とは仲良しだった。」と言い、最後に、「みんな戦争で死んじゃった。」とつぶやいていました。

祖父は、最後まで戦争のことを覚えていましたし、祖母も、今でも生々しい戦争の記憶があるようです。
祖父母の話を思い出すたび、悲惨な結果しか生み出さない戦争などというものが二度と起こらないようにと願わずにはいられません。
世界平和を祈念しつつ、今年のお盆を過ごそうと思います。

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