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優生保護法によって不妊手術を受けさせられた被害者が国に謝罪と補償を求めて裁判を闘っています。
 札幌では全国で初めて実名で提訴した小島喜久夫さんの裁判が始まりました。

 札幌地裁の第1回口頭弁論(9月28日)で小島さんは自らの体験を告白しました。

 以下、小島さんの了解を得て法廷での発言を紹介します。


 私は,とある子どものいない農家の実子として育てられました。
 その後, 弟と妹が生まれ,小学4年生頃から父親が,私に冷たくあたるようになりました。私は,どうして,こんな目にあうのかと思っていました。
 私は,小児麻痺で足も悪く,農家の仕事もできずにいつも怒られていました。
 両親が,なぜ私と弟妹とを差別するのかと疑問に思っていました。
 近所の人や友人には,お前はもらい子だと言われ,いじめられ,時には殴られたりもしました。

 中学3年になって,こんな家にいてもしょうがないと思い,この頃から, 親に反抗するようになり,やんちゃというか非行というか,親にお金を無心するようになりました。親からのお金を元手に,東京で就職しました。しかし,1年ほどして札幌に戻り,札幌で就職しても,自分の生い立ちが気になり,仕事もうまくいかず,実家に戻りました。

 ある日の午後,実家に戻ってみると,札幌北警察署のますだ巡査と父親がいました。父親にいきなり殴られ、ますだ巡査に手錠をかけられました。
 なぜこんなことをするのかと尋ねると,父は,「お前が悪いからだ」「一生外に出さない」と言いました。
 私は手錠をかけられたままオートバイに乗せられました。このまま北警察署に行くのかと思いましたが,着いた所は中江病院という病院でした。
 病院に連れて行かれ椅子に座らされました。私は黙っていたら,事務長と看護師が来て,私の腕をまくり注射を打ったのです。打った後, 気を失いました。目が覚めると, 手には革手錠をかけられた状態で鉄格子のある独房にいました。
 私は,宮野という婦長に, 「何でこんな所にいるのか」と聞いても,理由を教えてはもらえませんでした。
 2〜3日独房にいた後,雑居房に行きました。そこで初めて,私がいるのは精神病院で,私と同じような境遇の人が何人もいることが分かりました。
 雑居房にいた時,宮野婦長に,「なぜこんな所に入れられるのか」と尋ねると,宮野婦長からは「あんたは精神分裂病で障害者だし」と言われました。「どうして診察もしないで精神分裂病と言われるのか」と聞くと,同じ雑居房にいる人から,この病院に入ると病名をつけられて,何年も入院させられるのだと聞きました。
 雑居房で初めて,子どもができなくなる手術という言葉を,既に手術をされている人から聞きました。その人からは手術を受けると子どもができなくなると聞きました。また,ここに入るとみんな子どもができなくなる手術やロボトミー手術を受けさせられるのだとも聞きました。
 婦長に子どもができなくなる手術について聞くと,「当たり前だ,精神分裂病だし,障害者だし,小島さんもします」と言われ,そこで暴れたので,また独居房に2?3日入れられました。その時にも注射を打たれて気を失ったり,頭に電極をつけて電気ショックを何回もかけられて気を失うこともありました。
 独居房を出た後,また独居房に入れられ注射や電気ショックをかけられるのが怖くて,しばらく雑居房でおとなしくしていました。
 ある日,突然小島さんと呼ばれ,「明日手術をしますよ」と言われました。その時はショックでした。子どもができなくなる手術だということを知っていたからです。
 次の日,小島さんの番が来ましたと言われました。手術室に連れて行かれました。ズボンを脱がされそうになったので抵抗しましたが,4,5人から身体を押さえつけられて、ズボンを脱がされて注射を打たれました。それから手足を縛られて手術が行われました。
 手術後は,雑居房に戻って,寝ていました。
 手術から2〜3日ほど,手術跡が痛くてどうしようもなく,「これが子どもができなくなる手術なんだ」としみじみ思いました。

 手術後,雑居房の人が,「ここにいたら出られない」「中には10数年入院している人もいる」と教えられました。そういう話を見たり聞いたりして,私は,このままだとずっと一生ここから出られないと思い,ここから出る方法を考えていました。
 私は,おとなしく病院の指示に従うことで,模範的な患者となり,色々自由がきくような役割を受け持つことができるようになりました。
 そして,私はゴミを出す係になった時に,ゴミを出す際に裏口から逃げ出しました。
 無我夢中でそのまま逃げてきたので, 所持金は一切ありませんでした。そして伯母の家に行こうとしバスに飛び乗りました。バスを降りる際に所持金がないことを運転手に告げると,運転手は「いいよ」と言ってくれたので,伯母の家にたどり着くことができました。
 私が「病院から逃げてきた」と言うと,伯母は「どうして逃げてきたの」と聞かれました。私は,「真面目にやるから,引き取ってください」と言うと,伯母は「真面目にやるなら私が引き取ってあげるから」と言ってくれてました。 
その後,病院から職員らが私を連れ戻そうと伯母の家まで来ましたが,伯母が「私が引き取ります」と言って病院の職員を追い払ってくれました。
 その後,遊んでいるようではダメだと思い,仕事をするために免許を取り,タクシー運転手をしました。

 そして結婚もしましたが,子どもは当然できません。
 妻からは,「なぜ子どもができないのか」と聞かれましたが,優生手術の話をすることはできないので,「おたふく風邪になったので,子どもはできない」と嘘の説明をしていました。

 私は,57年間もの間,優生手術を受けたことを誰にも話すことができず,一人で抱えて,悩んできました。
 タクシーの運転手をしていると,親子連れのお客を動物園まで送ることもありました。そのような親子を見ると,これが本当の幸せなんだなと思い,自分にはそれが実現することができないことなのだと。自分の子どもがいれば人生が変わっていたのではないかと思い,一人悩み続けました。

 平成30年1月末に,優生保護手術を受けた仙台の人についての記事が北海道新聞に掲載されました。それを読んで,同じ境遇の人がいることを知りました。
 そこで,妻に真実を告げようか悩みましたが,なかなか言い出すことができませんでした。
 しかし,2月1日の夜に,妻に私も優生手術を受けさせられていたのだと,初めて真実を告げました。
 妻は,驚くととともに,はじめは私の話を信じないでいました。妻からは,「事実だったら電話をしたら」と言われ,翌日に行われる弁護士による電話相談をしてみることにしました。翌日の電話相談開始時間になっても,なかなか電話をすることができないでいました。しばらくして決心がつき,ようやく電話をして弁護士に相談することができました。
 この電話相談をきっかけに,弁護士と話をして, 裁判を起こすことにしました。

 私が,報道機関に実名と顔を出している理由は,私と同じように優生手術を強制された人に対して,同じ境遇の人がいることを知ってもらい,勇気を持って訴えてもらいたいと考えたからです。
 
 57年間一人で優生手術を受けたことを誰にも言えずに,また子どもができないことを妻に説明ができないことで,一人悩み苦しんできました。
 このように悩み苦しむ原因は,国が強制的に私に優生手術を行ったことしかありません。
 また,つい最近まで,優生手術は中江病院が判断して行ったと思っていました。しかし,平成30年の1月に宮城の女性のニュースを読んで,私と同じように優生手術を受けた人がいることを知り,また,優生手術が国によって強制的に行われていたことも知りました。そのニュースを読んで思ったことは,何で国が優生手術を強制的に行っていたのかという大きな疑問です。
 この裁判で勝ったとしても, 人生が戻って来ることはありません。57年間の私の苦しみがなくなることもありません。
 私のように,国の誤った法律・政策によって人生を狂わされる被害者を出さないためにも,国が責任を認めて謝罪をきちんとしてもらいたいと考えています。
 

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